今まで自分がどこの健康保険に加入しているかとか全く意識したことがなくて、「気にしてる奴は人間ドックの世話になるおっちゃんだけだろ」と思ってた。
関東ITなんちゃらは、スポーツクラブだとか保養所の特典が凄すぎワロタみたいな感じなんだけど、名鉄健保の時は検診の割引くらいしか無かった。政府管掌健康保険というやつは、割高だそうである。それぞれで扶養家族に認定される範囲が異なるのかなと思ったけど、余り違いは無かった。
これらの加入者へのサービスの違いはどこから来るんだろうね。政府のやつよりも安く加入できて特典盛りだくさんなら、関東のIT業界で働く人ってめちゃめちゃお得じゃん。関東の会社だったらどこでも加入している訳ではないのか。
就職活動だとか転職活動をしっかりと時間かけてやる人は、こういうところも調べたりするんだろうか。
『弥勒』は、『聖域』と並んで、篠田節子という作家を代表する傑作である。
既に一度読んでいる作品なのだが、2008-03に起きた中国によるチベット弾圧の報道を見て、もう一度読み返してみようと思い再読した。
本書の裏表紙には、次のように概要がまとめられている。
ヒマラヤの小国・パスキムは、独自の仏教美術に彩られた美しい王国だ。新聞社社員・永岡英彰は、政変で国交を断絶したパスキムに単身で潜入を試みるが、そこで目にしたものは虐殺された僧侶たちの姿だった。そして永岡も革命軍に捕らわれ、想像を絶する生活が始まった。救いとは何かを問う渾身の超大作。
『弥勒』は、パスキムというカースト制度が敷かれた国を舞台に起こる、共産主義革命を描いた物語である。
物語の舞台となるパスキムとは、インドのヒンドゥー教とチベット仏教、そして土着信仰の濃密に混じり合った独自の文化を持つ国として語られている。著者が独自に作り上げた架空の国ではあるが、主人公である永岡がパスキムの国王サーカルと謁見した場面において「しかし交通・通信手段の発達した現代において、鎖国体制を敷けば、今世紀中頃のチベットの例を見るまでもなく国家は侵略され、破綻する。そんなとき君ならどうするかね?」
と問われるように、幾らかは「まだ外的要因による文化破壊がなされる以前のチベット」を意識して描かれていることが窺える。
改めて再読してみて、初めて気付いた点は、そもそも永岡がパスキムへ入国するきっかけを作ることになる妻・耀子の人物造形の絶妙さだ。
といった肩書きを持ち、テレビ番組やファッション誌に出演しては、若い女性に向けて「スピリチュアルな癒し」を発信する耀子。これは、言うまでもなく、2007年のネットコミュニティを騒がせたスイーツ(笑)そのままである。
10年も前にして、既にスイーツ・エヴァンジェリストを描いてみせているのである。再読してびっくりした点の一つだ。
強烈な個性と魅力を持つ妻の耀子が、若くして成功した実業家に寝取られて、それを傍観するしかないダメ亭主の新聞社員、永岡英彰・・・と、導入部だけ読めばこのまま『男たちのジハード』といった作品が始まりそうなものだが、篠田節子はあっさりと、それらの人物設定を切り捨てて舞台をパスキムへ移してしまう。
美を最上とする永岡という人物の価値観は、序盤における次のシーンに如実に描かれている。
この国の人々、この寺の人々、国王さえも見ることの許されない弥勒を、生命の危険を冒しても一目見たい、というのは、学問的興味を越えて、永岡の生理的欲望のようなものだった。
この絶対的な美術品への執着こそが、永岡を惑わせ、革命への立会いを余儀なくさせてしまうところが何とも言えない皮肉を感じさせる。
革命軍・パスキム解放戦線に寺院の僧侶を全て殺されて、それでもなお、僧院長が心情を吐露する次のような場面がある。
「死ぬことは怖くはありません。来世もどこかで生まれ変わるのですから。苦しみの分だけ、幸せな来世が約束されるのです。けれど黒い服を着た猿のような人々が、来世にどれだけの業を背負っていくのか、転生してどれだけの苦しみを味わうのだろうかと思うと、ただただ哀れで恐ろしく、涙ばかりが流れました。暗やみで彼らのために祈りました。」
日本で暮らしていて、この価値観に理解を示せる人が、どれほど居るだろうか。インチキでない宗教者と出会う機会の方が稀な国というのが、現代の日本であり、自分たちを殺しに来た人間の来世を心配しろなどと、どだい無理な話だ。
しかしそれでも、僧が尊敬され、魂は巡ると考える文化を持つ世界が在るということは、頭の片隅で考えておかなければいけないと思う。
永岡もまた、この僧院長との出会いには、己の価値観を強く揺さぶられることとなる。
革命軍を率いるゲルツェンの正体に永岡が気付いたときの驚きは、ミステリ小説としてのカタルシスを得られるところだ。ネタバレになるため触れないが、是非実際に読んでみて意外な正体にびっくりして欲しい。
ゲルツェンの価値観というのは、完全平等社会を目指すことが全てだ。
「私は、自分が兵士やここにいる他の人々と違うとは思わない。私の家が、一晩中明かりをつけられるようになったときは、この国のすべての人々の家に、一晩中、明かりがともるときだ。そして私が、麦以外のものを口にできるようになるときは、すべての人々が、麦以外のものを食べられるようになったときだ」
歴史上の共産主義者とは少し違い、自分さえ含めた完全に平等な国を目指そうというのが、ゲルツェンという人物である。
永岡はゲルツェンを、次のように評する。
今まで、だれも想像しなかったような、精神の改革を目指している。これは革命でもクーデターでもなく、宗教改革だ。宗教を否定したものが行おうとしている宗教改革。
僧侶を殺し、もし売ればその代金で大量の武器を買えるはずの貴重な宗教美術を谷に投げ落とし、既存の宗教をすべて否定し、親子や家族の絆を断ち切り、兄弟という言葉でくくられた水平平等を達成しようとしている。
ゲルツェンの唱える理想の全てを肯定することは出来ないにしても、彼の作り上げた社会で過ごす内に永岡は、自分の暮らしてきた都市文化への考えを改めるに至る。
「肉というのが、僕たちのために、あたかも切り身のままこの世に生まれてきたと信じられるのが、都市に住むってことだ。しかし自らの手を血で汚す仕事をだれかがしている限り、彼らもどこかで救われなければならないはずだ。今、彼らはどうやって救われるのだろう」
結局ゲルツェンの目指した社会は、破綻してしまう。永岡は、この世に現れた地獄を経験することになる。
ここからの容赦のない描写は凄まじく、篠田節子という作家の本領発揮といった感じがする。とにかく曖昧に描かない。読んでいる方も激しく消耗するが、作者はいったいどれほどの覚悟で本書を書き上げたのだろうと、ただ驚嘆するばかりだ。
伝染病や飢えで人が死に、自然の養える適正規模まで人が減らなければ、ゲルツェンの考えたシステムは機能しない。そもそも鎖国、自給自足とはそうして成立するものなのだ。もしも自然の許容量を越えた人口を養いたければ、直接的、間接的に他国を侵略するしかない。
日本の近くにも、このような共産主義国家は無かっただろうか。或いは、このような道を辿った国が、日本も含めて、過去に無かったか。
本書は、余りにも多くのことを問いかける作品だ。正直、ウェブ日記に感想を書き留めておくには、スケールが大き過ぎる。
そして、読む側も激しく消耗する。もちろん、先に述べたようにミステリ的なカタルシスを得られる作品であるし、そもそもが娯楽小説なのだから、一度読み始めたら寝る間も惜しい、いわゆる「徹夜本」というやつである。寝ることも忘れて一気読みすること自体が疲れるのに、内容が濃いために、ただごとではない読書体験を強いられることになってしまうのだ。
この書評を書いている時点では、今年に開催が予定されている北京五輪がどうなるかは全く分からない。こうやって呑気にキーボードを打っている間でも、チベットでは大変なことが起きているはずだ。ただ、間違いなく言えることは、篠田節子の『弥勒』という作品は、今だからこそ読む価値のある一冊だということだ。
子供のためと称して子供から権利を奪うな。最悪。
僕が最初に就職した会社には、ウェブサイトのフィルタリングが導入されていた。コンテンツフィルタとか呼ぶんだったかな。日本の多くの企業で導入されていると思うが、特定の条件に合致するウェブサイトは、会社からは一切アクセスできない。これがフィルタリングである。
それからも、「業務に無関係なウェブサイトは有害。閲覧できたら社員の生産性を落とす」の大号令のもと、どんどん見られるウェブサイトは少なく、狭くなっていった。
ついには、僕が参考にしていたHTMLやCSSを解説した個人のウェブサイトもフィルタリングの対象になってしまった。フィルタリングの理由は「反社会的」と表示された。単に旧字体*1で綴られているという理由で、右翼的な思想だとみなされて規制の対象となってしまった。
会社から覗けるインターネットの世界は、限りなく狭くなった。グーグルの検索結果の中を、リンク先が規制対象に含まれていやしないかビクビクしながら情報を探すのは、さながら地雷原の中を進むようだった。
フィルタリングの経験から学んだことは、次の2つである。
その会社はもう辞めてしまったので、フィルタリングが今どんな状況なのかは分からない。少しは基準が緩くなったかもしれないし、さらに酷くなったかもしれない。
今でもキッズgooとか馬鹿みたいなサービスがあるけど、子供に見せないという考え方がダメ。どうしようもなくダメ。
子供が見たいと思うものを見せて、情報の受け取り方を学ばせないと。他人が有害認定した情報を見せないで純粋培養して、明日のグーグルを作るかもしれない子供の可能性を潰すのは止めた方が良い。
子供の見られる世界を狭くするな。
子供のためと称して子供から権利を奪うな。
*1 正字と呼ぶのが正しいのかもしれない。
▼ ユーキさん [そのうち(ブログで)やろうと思っていたのですが 「なんとなく正しいことをしていると言う思い込み」 が 「大多数の素人..]
▼ かわはら [ユーキの意見に意見を付け足すイメージで。 「知らないこと」が不安を煽っているということだと思います。 たとえばネット..]
▼ 雷悶 [>ユーキ 大多数の人はゲームやらポルノやらが悪いわけじゃないと分かっている人で、尚且つ、いくら何でもそんな規制にはな..]
▼ ユーキさん [サイレントマジョリティは統計とかを丸々否定するのに使えてしまうので 補足で「全部に該当するわけじゃない」ぐらいのこと..]
▼ 雷悶 [サイレントマジョリティという単語の万能感が嫌ですね。本当は居ないのに、そこに居るみたいな印象を与えるというか。 他..]
今日はオレが長年実践しているライフハックを披露しよう! その名もビジネス書スルーハックと短髪ハックだ。いま名付けた!
ライフハックってのはアレだ、ようするに仕事を効率よくできるかどうかよりも、いかに時間を増やすかが大事なんだと思うぜ!
ビジネス書スルーハックとは、ビジネス書の類は一切読まないことである!
読まないというか、ビジネス書関連の情報は視界に入れない。ビジネス書とは何かと言うと、『バカの壁』のように、発売翌年にはブックオフの片隅で100円で転がっているような本である。別にビジネス書を読む行為を貶めたいわけではなくて、こうすることで時間が増えるよ! というハックである。利点を紹介しよう。
うちの会社の社長は4ドアベンツでけものみちを行ったりしない。つまりビジネス書をスルーしていてもオレの仕事には何の悪影響も無いことが、ここに証明されていると言えよう。
短髪ハックとは、髪を短く保ち続けることである!
かれこれ3年以上、1ヶ月間隔で美容院へ行って短い状態の髪を保っているが、これがなかなか快適なのである。美容院のお姉ちゃんが言うには「ベリーショート」というやつらしいので、相当短いんだと思う。毛の量が多くて、少しでも伸びるともっさりしてしまうので、いつも徹底的に梳いてもらっている。主な利点は次の通り。
ここまで読んだ賢明な諸君はお気付きであろう。そう、究極の短髪ハックは坊主にしてしまうことに他ならない。坊主頭ならセットの時間すら捨てられる。まさに究極だ。
坊主は人相が悪くなりそうで嫌だぜ! と思いがちだが、美容院には坊主専門のヘアカタログが置いてあって100種類くらい載っている(「坊主」じゃなくて「ボウズ」とオサレに書かれている)のだ。カタログから選んで腕の良い人に頼めば超かっこいい坊主になれると思うぜ! オサレボウズヘアーは、合コンでもジョリジョリとタッチしてもらえて、それはもうムフフだぜ! 多分ね!
ベリーショート(笑) ボウズ(笑) と嘲笑の対象にされてしまいそうだが、短髪ハックは多大な時間を生み出してくれる上に、様々なストレスからも解放されるので、かなりお勧めである。
少し前にオナニーハックという記事を読んで、「なるほど! こいつはなかなか良いかもな!」と感銘を受けたんだけど、オナニーした後はシャワーを浴びたいオレとしては、このハックは受け入れ難いものがあって断念した。
オナ禁に至ってては、禁煙で挫折している人を指差して笑えないほどに何度も挫折しているので、諦めることにした。
それにしてもオナニーの時間は本当に悩ましい。エロネタを求めてウェブの世界を彷徨う時間も含めると、気が付くと2時間経過なんてザラにあるので、どうにかしたいところだ。
ほとんど備忘録のようなもの。たまに更新するかも。
NiGHTS全然進んでないな。ちゃんとクリアしないと。エンディングが良いらしいので。
シレン3って、もうすぐ発売じゃんか。
僕は基本的にルールで遊ぶゲームが好きなので、別に画面が綺麗だろうがBDが再生できようが、PS3を欲しいと思わないわけ。で、「欲しいと思わない」という感情以外にも、「気に食わない」という感情が自分の中にあって。Xbox360やPSPに対しては、そういった感情は無いのだけど、どうにもPS3は気に食わない。
なんでなのか考えてみると、こういうこと。
牛肉が庶民に高嶺の花だった時代ならいざ知らず、今の時代に、「牛丼食べたいの? じゃあ三ツ星フレンチレストランに来てね」っていうのがPS3なんだわ。
牛丼大好きだけど貧乏な僕は、「ちくしょー牛丼食べたいなー。けど一流のレストランは、さすがに高いから迷うよなぁ」と悶々としているところに、「お客さん、だからウチは牛丼屋って言ってないじゃない(笑)」と嘲笑したのが当時のPS3を売ってる会社の社長で、だからもう、ムカついてしょうがない。
世の中には「ゲームファンが高性能なゲーム機を買って普及させないと、ゲーム機の性能の進化が止まってしまうじゃないか!」と主張する人が居て、その姿勢は大変尊いと思うし、どんどん買ってくださいという感じなんだけど。僕だって過去に高級車を買ってくれた人たちのおかげで、今、庶民用の自家用車がエアバッグとか付いて買えるんだし。ありがたいこと。
ただ、上記のような理由でPS3が気に食わない僕にゲームの進化を主張されても、そりゃかみ合わないよね。意外と居ると思うんだけどね。似たような感情を抱いてる人って。
キリンNUDAは全然美味しくないしクソのような飲み物だと思ってましたが、新フレーバーのグレープフルーツ&ホップが大変イケてるので、認識を改めました。
ニューダ美味しいよニューダ。
ビール控えよう。
例えば公共トイレで4つずつ便器が並んでいる時に、以下のようなパターンが良くある。
これは、どちらも納得できる。「うんこする時はどうしても和式じゃなきゃダメ!」という人にとって、和式便器と洋式便器は交換不可能なインタフェースだからだ。
ただ、ときどき
という信じられない並びをやってのけるトイレが存在する。これは明らかにおかしいし、意味が分からない。納得いかない。
例えるならば、
こんなパターンのトイレは、馬鹿馬鹿し過ぎてまず無いだろうが、非ウォシュレットが突然登場するパターンも、同じくらいおかしくないだろうか。
洋式便器の進化の過程において、ウォシュレット式便器は、非ウォシュレット式便器に対して完全な後方互換を持っている筈だ。1つだけ嫌がらせのようにウォシュレットを装備しない便器を置く意図って、何だ?
どうしても納得いかんなぁ・・・。
▼ かわはら@会社のトイレ [もともと4つとも和式で、時代の流れに合わせて1台を洋式化。 さらに洋式のニーズが増したので、残りの3台を新型で洋式に..]
▼ 雷悶 [おー、なるほど。 物事の背景に隠された歴史にまで考えが及ぶのが、年の功というやつか。]
▼ ユーキさん [私の職場、某F社の工場内のトイレにおいて 大が2つあり、ひとつがウォシュレット、もうひとつが否 と言う構成が、わりと..]
▼ ユーキさん [NUDAシリーズは正直まずいと思います が、にもかかわらず、なんとなく手にとってしまう いわば「まずうま」的魅力があ..]
▼ 雷悶 [何そのヘタウマ的な。 本家NUDAはどうしようもなくマズイけどグレープフルーツ&ホップは本当に美味しいよ! ゲッ..]
私の好きなマンガを描いている畑健二郎先生(通称畑君)の、サンデーまんが家バックステージで毎週律儀に更新される日記の概要フィードを作りました。
「ハヤテのごとく!」は、サブカルチャー的なギャグの皮をかぶった恋愛少女マンガだと思って読んでます。本当に面白いし、毎週楽しみです。
前に「ビジネス書はスルーしちゃうぜ」と書いたら、「お前のその主張は不愉快だ!」とビジネス書を愛読する知人に言われてしまったので、一応、言い訳を。
結論から言うと、私はビジネス書の読み方を知らないのです。読み方が分からない、と言い換えても良いかも知れません。
なんせ小学生の頃に読書という習慣を身に付けた頃に読み始めたのが
だったので、本の最後で謎を解いてくれないと、スッキリしないのです。細かく章立てされていて、それぞれ行間を読まないといけないビジネス書は、私にとって大変難解であり、読むことが困難です。
凄腕の経営者やコンサルタントの書いた本を読んで感銘を受けて、自分の生活に反映できる人は、単純に、私よりもビジネス書を読むセンスがあるんだと思います。
うめだもちおの言うようなウェブ論は、私にとってはコンピュータのディスプレイを通して読むもの、という先入観もあります。
本というインタフェースは、娯楽小説を楽しむために存在していると云う認識なのです。だから今後もビジネス書に時間を割くことは無いと思います。
最近のツッコミ
参号館 日記(ariyasacca)
▼ かわはら@携帯 [前の会社が関東ITでした。あれはよかった。]
▼ 雷悶 [さすが、落ちぶれても元大企業階級だけのことはあるな。]