『弥勒』は、『聖域』と並んで、篠田節子という作家を代表する傑作である。
既に一度読んでいる作品なのだが、2008-03に起きた中国によるチベット弾圧の報道を見て、もう一度読み返してみようと思い再読した。
本書の裏表紙には、次のように概要がまとめられている。
ヒマラヤの小国・パスキムは、独自の仏教美術に彩られた美しい王国だ。新聞社社員・永岡英彰は、政変で国交を断絶したパスキムに単身で潜入を試みるが、そこで目にしたものは虐殺された僧侶たちの姿だった。そして永岡も革命軍に捕らわれ、想像を絶する生活が始まった。救いとは何かを問う渾身の超大作。
『弥勒』は、パスキムというカースト制度が敷かれた国を舞台に起こる、共産主義革命を描いた物語である。
物語の舞台となるパスキムとは、インドのヒンドゥー教とチベット仏教、そして土着信仰の濃密に混じり合った独自の文化を持つ国として語られている。著者が独自に作り上げた架空の国ではあるが、主人公である永岡がパスキムの国王サーカルと謁見した場面において「しかし交通・通信手段の発達した現代において、鎖国体制を敷けば、今世紀中頃のチベットの例を見るまでもなく国家は侵略され、破綻する。そんなとき君ならどうするかね?」
と問われるように、幾らかは「まだ外的要因による文化破壊がなされる以前のチベット」を意識して描かれていることが窺える。
改めて再読してみて、初めて気付いた点は、そもそも永岡がパスキムへ入国するきっかけを作ることになる妻・耀子の人物造形の絶妙さだ。
といった肩書きを持ち、テレビ番組やファッション誌に出演しては、若い女性に向けて「スピリチュアルな癒し」を発信する耀子。これは、言うまでもなく、2007年のネットコミュニティを騒がせたスイーツ(笑)そのままである。
10年も前にして、既にスイーツ・エヴァンジェリストを描いてみせているのである。再読してびっくりした点の一つだ。
強烈な個性と魅力を持つ妻の耀子が、若くして成功した実業家に寝取られて、それを傍観するしかないダメ亭主の新聞社員、永岡英彰・・・と、導入部だけ読めばこのまま『男たちのジハード』といった作品が始まりそうなものだが、篠田節子はあっさりと、それらの人物設定を切り捨てて舞台をパスキムへ移してしまう。
美を最上とする永岡という人物の価値観は、序盤における次のシーンに如実に描かれている。
この国の人々、この寺の人々、国王さえも見ることの許されない弥勒を、生命の危険を冒しても一目見たい、というのは、学問的興味を越えて、永岡の生理的欲望のようなものだった。
この絶対的な美術品への執着こそが、永岡を惑わせ、革命への立会いを余儀なくさせてしまうところが何とも言えない皮肉を感じさせる。
革命軍・パスキム解放戦線に寺院の僧侶を全て殺されて、それでもなお、僧院長が心情を吐露する次のような場面がある。
「死ぬことは怖くはありません。来世もどこかで生まれ変わるのですから。苦しみの分だけ、幸せな来世が約束されるのです。けれど黒い服を着た猿のような人々が、来世にどれだけの業を背負っていくのか、転生してどれだけの苦しみを味わうのだろうかと思うと、ただただ哀れで恐ろしく、涙ばかりが流れました。暗やみで彼らのために祈りました。」
日本で暮らしていて、この価値観に理解を示せる人が、どれほど居るだろうか。インチキでない宗教者と出会う機会の方が稀な国というのが、現代の日本であり、自分たちを殺しに来た人間の来世を心配しろなどと、どだい無理な話だ。
しかしそれでも、僧が尊敬され、魂は巡ると考える文化を持つ世界が在るということは、頭の片隅で考えておかなければいけないと思う。
永岡もまた、この僧院長との出会いには、己の価値観を強く揺さぶられることとなる。
革命軍を率いるゲルツェンの正体に永岡が気付いたときの驚きは、ミステリ小説としてのカタルシスを得られるところだ。ネタバレになるため触れないが、是非実際に読んでみて意外な正体にびっくりして欲しい。
ゲルツェンの価値観というのは、完全平等社会を目指すことが全てだ。
「私は、自分が兵士やここにいる他の人々と違うとは思わない。私の家が、一晩中明かりをつけられるようになったときは、この国のすべての人々の家に、一晩中、明かりがともるときだ。そして私が、麦以外のものを口にできるようになるときは、すべての人々が、麦以外のものを食べられるようになったときだ」
歴史上の共産主義者とは少し違い、自分さえ含めた完全に平等な国を目指そうというのが、ゲルツェンという人物である。
永岡はゲルツェンを、次のように評する。
今まで、だれも想像しなかったような、精神の改革を目指している。これは革命でもクーデターでもなく、宗教改革だ。宗教を否定したものが行おうとしている宗教改革。
僧侶を殺し、もし売ればその代金で大量の武器を買えるはずの貴重な宗教美術を谷に投げ落とし、既存の宗教をすべて否定し、親子や家族の絆を断ち切り、兄弟という言葉でくくられた水平平等を達成しようとしている。
ゲルツェンの唱える理想の全てを肯定することは出来ないにしても、彼の作り上げた社会で過ごす内に永岡は、自分の暮らしてきた都市文化への考えを改めるに至る。
「肉というのが、僕たちのために、あたかも切り身のままこの世に生まれてきたと信じられるのが、都市に住むってことだ。しかし自らの手を血で汚す仕事をだれかがしている限り、彼らもどこかで救われなければならないはずだ。今、彼らはどうやって救われるのだろう」
結局ゲルツェンの目指した社会は、破綻してしまう。永岡は、この世に現れた地獄を経験することになる。
ここからの容赦のない描写は凄まじく、篠田節子という作家の本領発揮といった感じがする。とにかく曖昧に描かない。読んでいる方も激しく消耗するが、作者はいったいどれほどの覚悟で本書を書き上げたのだろうと、ただ驚嘆するばかりだ。
伝染病や飢えで人が死に、自然の養える適正規模まで人が減らなければ、ゲルツェンの考えたシステムは機能しない。そもそも鎖国、自給自足とはそうして成立するものなのだ。もしも自然の許容量を越えた人口を養いたければ、直接的、間接的に他国を侵略するしかない。
日本の近くにも、このような共産主義国家は無かっただろうか。或いは、このような道を辿った国が、日本も含めて、過去に無かったか。
本書は、余りにも多くのことを問いかける作品だ。正直、ウェブ日記に感想を書き留めておくには、スケールが大き過ぎる。
そして、読む側も激しく消耗する。もちろん、先に述べたようにミステリ的なカタルシスを得られる作品であるし、そもそもが娯楽小説なのだから、一度読み始めたら寝る間も惜しい、いわゆる「徹夜本」というやつである。寝ることも忘れて一気読みすること自体が疲れるのに、内容が濃いために、ただごとではない読書体験を強いられることになってしまうのだ。
この書評を書いている時点では、今年に開催が予定されている北京五輪がどうなるかは全く分からない。こうやって呑気にキーボードを打っている間でも、チベットでは大変なことが起きているはずだ。ただ、間違いなく言えることは、篠田節子の『弥勒』という作品は、今だからこそ読む価値のある一冊だということだ。
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