今日は午後から祖母の告別式となった。昨日の通夜に引き続いて、大勢の方が来てくれた。
喪主として挨拶した父は、堂々としていて立派だった。
式の後は、皆で墓に祖母の骨を埋めに行った。この炎天下の中を礼服で歩くのは、とても暑い。これからは夏が来る度に、祖母のことを思い出すのかもしれない。
葬儀というのは遺った人のためにするものだと良く言うけれど、本当にその通りで、親戚一同集まってご飯を食べていると、ちょっとした同窓会のような雰囲気になる。故人が作ってくれた機会で、皆が懐かしい顔に会える。僕は全く信心深くない人間で、自分が死んだ時は葬式なんでやらんで良いと思っていたけれど、そうではないのだ。遺された人たちが、各々の気持ちに区切りをつけるために、通夜やら葬式やら必要になってくるのだ。僕は今日来てくれた地元の生臭坊主が大嫌いだが、舞台装置としては欠かせないものなんだと理解した。お経を録音したテープじゃ、現代ではまだまだ、代役は務まらない。とにかく本人が葬儀を「盛大にやってくれ」「いや、やらんで良い」とか言うのは、何だかおかしな話なんだろう。
身内の死は、色々なことを考えさせられる。
実祖父母で存命なのは、父方の祖母だけとなった。普段は極力考えないようにしているが、順当に考えれば、次は両親の番で、その次は僕や妹たちの番となる。その前に、我が家で飼っている柴犬の番が来るかもしれない。何せ、今年で13歳だ。まだまだ元気だけれど、偶に皮膚の病気になったりしている。ちょっと調べてみたら、人間換算で68歳にあたるようだ。
そういえば今年の初めに一人暮らしはやめて実家からの通勤に切り替えると目標を立てていたのだけど、あれは祖母の介護も手伝うためでもあった。母は本当に祖母の介護を頑張っていたと思う。数年前から自分では歩けなくなった祖母の介護のために、友達と連れ立って旅行に行くのもずっと我慢して、我侭を言うことが増えた祖母に付き合っていた。ときどき僕や妹がおむつを替えたり食事を運ぶこともあったけれど、それはどうしても母が仕事を外せない時だけだった。車椅子ごと簡単に乗り降りできるようにと、背の高いスライドドア式の軽自動車に買い換えたばかりだけれど、それは無駄になってしまって少し残念そうだった。家族との時間を大事にしたいので、やはり多少の無理をしてでも、家に戻って通勤するようにしよう。父には煙草を止めて欲しいのだけど、今日も「また税金が上がったら考える」とはぐらかして言っていたので、多分しばらくは止めないだろう。
告別式に、親戚のすごく小さな女の子が来てくれた。多分、ほとんどの大人たちの顔と名前が分からなかっただろうと思う。盆正月に集まる人数と、葬儀で集まる人数とでは、規模が全然違うのだ。祖父が他界した時の僕も、5分の1くらいの親戚の顔しか分からなかった。今回は半分くらいかな。"家"と云うものを強烈に意識させられた。
あと改めて実感したが、気持ちを吐き出す場所としてインターネットがあるのは、大変良いことだ。死だの葬儀だのといった単語が沢山並んだ今日の日記が、フィルタリングに引っ掛かるような未来にはなって欲しくない。
最近のツッコミ
参号館 日記(ariyasacca)
この度はご愁傷様でした。<br><br>最近僕の両親の顔や髪が急に老けてきたかなと思うようになり、いつか来るべき日が近づいているんだなあとここ 1,2 年で僕も強く思うようになりました。両親はもう長くないからと冗談交じりに言ってますけど本心はどうなんだろう。やっぱり怖いんだろうかとか色々思いますね。僕は怖いです。
そうですね、やっぱり老けたなぁっていうのが、親に会う度に思うことですね。<br>会う回数が少ない人の場合は、なおさら顕著なんだろうね。