死ぬのが怖い。別に不治の病だとかに冒されている訳ではない。そうじゃなくて、いつか自分に訪れる死というものが怖くて堪らないのだ。
"自分の死"と真正面から向き合って考えてみたことのある人は、どのくらい居るのかなぁと思う。多分、ほとんどの若い人にとって自分の死というものは、何となく分かっちゃいるけど、もっと何光年も先の話のような感覚なのではないかな。そういう感じ方を批判する訳ではないし、むしろ今だけを見て日々を過ごせることは、こんなことで悩むよりも全然良いことだ。
ふと、それに気付いたと言うか思い至ったのは、18くらいの頃である。ずっと一緒に暮らして来た祖父が他界したことも大きかったのかもしれない。やはり身内の死というものは、一つのきっかけになるのかな。特に、オレはじいちゃんっ子だったし。それからしばらくして、「自分が死ぬというのはどういうことだろう?」と考えてしまった。これがいけなかった。
オレが思っている死の概念というのは、「無」である。これを巧く伝えるのは大変に難しい。真っ暗だとか寂しいだとか、そういうものとは根本的に違う。そこには"真っ暗だと知覚する自分も、寂しいと感じる自分も居ない"ということなんだけど、分かりにくいなぁ。で、死を迎えるということは、電気の明かりが消えたりデジタル信号が1から0に切り替わるみたいに、それまで連続して続いてきた自分の意識(自我?)そのものが、死を境にフッと消えてしまうんだろうと。
初めてそう考えた時は、本当に震えが止まらなくて涙が出た。怖いだとか悔しいだとか理不尽だとか、色々な感情がごちゃ混ぜになった。自分の大切な人も居ない、先立って逝ってしまった人も居ない、そしてそれが怖いと感じる自分すら居ない・・・。何だよそれは、と。そういう形容し難い気分が、寝苦しい夜なんかに発作的に"やって来る"(他に表現のしようが無い)もんだから、これはもう参った。タナトフォビア(死恐怖症)という言葉を知ったのは、かなり後の話だ。
幸いと言べきか、そういうモノに捕り付かれていたのは割と短期間だった。もちろん今でも死が怖いことに変わりは無いんだけど、視線の逸らし方を覚えたと言うのかな。自分の死から斜め30度くらいを見て物を考えるようになれた。ンなもんは逃げてるだけだろクソが、と言われればハイそうです、なんだけど。タナトの重い症状になると、精神安定剤を処方してもらって、やっと寝れる人も居るそうだから、そういう意味ではやっぱり幸運だったんだろうな。
コイツがとにかく、どうしようもなく重い。自分もいつかその時が来るんだという、動かしようの無い絶対的な事実が、本当に重い。自分の死だけは、練習を積んで本番を迎えることの出来ない現象だからなぁ。
死は平等なんだ、という考え方もある。でもオギャーと生れ落ちると同時に砂時計は下を向けられていて、模範生も犯罪者も、結局皆行き着く終着点は同じ。人と会うこと、書物から知識を得ること、何もかも最後にリセットされてしまうというのは、余りにも残酷じゃないか。虚無感じゃないけど、何だかなぁ。
言い換えるのであれば、人生の究極的な目標と言うのは、自分の死をいかにして受け容れるか、ということなのかも知れない。「死ぬことは生まれる前の状態に戻るだけなんだから怖くないんですよー」「だいいち死んだら『怖い』という感情は無いんだから、心配要りませんよー」というのは、理屈としては分からんでもないけど納得するのはやはり難しい。
ひとつは宗教というのがあると思う。オレは無宗教・無神論者だけど、何かを信じることで死の恐怖が和らぐのであれば、それは信じている人にとって大いに意味のあることなのではないか。信じれば君だけは死後の世界で幸せになれるよ、なんて言うのは意外と良く出来た仕組みだと思う。まぁ仏教なんかは輪廻転生だから死後の世界は無いんだけど、何にせよ「死後の保証」があると頭から信じることが出来たら、それはそれで幸せなことなのではあるまいか。
個人的には、死の恐怖を緩和する物は加齢かな、と思っている。年齢を重ねると言うことは、慣れる、鈍感になるということだ。時間の流れに対しては、特に顕著に表れるし、面白い物を探そうと張り巡らすアンテナも年々鈍くなっていくのを感じる。50代になった頃には、死生観なんてものは全然違った考え方をしているのかもしれないな。そう考えると、老いることだって悪いことばかりではないのかな。
老いは悪じゃないと言っておいてアレだけど、不老不死になれるというなら、やはりなりたいものである。友達に言うと大体が「自分は太く短く生きるからなりたくねー」と返って来る。オレはなりたいけどなぁ。そんなに世の中ツマランかなぁ。まず本読み倒すだけでも、500年くらいは暇しなさそうだ。あらゆるスポーツを経験するのも良いな。自分で自由に生き死にを決められる時代が来るといいな。