読み物

高校時代の思い出

華の十代である高校時代。どこもかしこも青春真っ盛り。しかし、オレの中では暗黒の三年間として、心の奥深くに封印されている記憶。忘れてしまわないうちに、文章にしておこう。

オレが通っていたのは、愛知県尾張地区のH東高校。公立志向の根強い愛知の田舎の方では、まぁまぁと言うか、中学時代それなりに勉強の出来た奴が集まる学校で、地区一番の進学校のH高校の滑り止めとして良く受験されてた。この"滑り止めに使われていた"、と言うのが中々に厄介で、要するに、ふるいに掛けられて落ちた人達の受け皿になっているのが、オレの行ってたH東高校なのである。だからもう、周りの高校を偏差値で追い付け追い越せの負け犬根性丸出しの教育方針で、自衛隊養成校なんじゃないかと思うくらいの超スパルタっぷりだった。

最初に校則について解説しておこう。うちの学校の校則はとにかく厳しくて、他の学校に進学した中学時代の友達に会っては、哀れな眼差しで見られたものだ。まず学校の代名詞になっていたのが、自転車通学者のヘルメット着用の強制。通称"メット校"とか呼ばれていた。オレは電車通学だったのにいい迷惑だ。さらに月に一度くらいの割合で、身だしなみ指導というものがある。生徒全員が恐れる頭髪検査というものが行われ、黒髪の徹底は当然として、男子の前髪は眉毛より上、横髪は耳にかかっていたらアウト。女子はある程度の長さまで伸びたら、結わなければならない。ルーズソックスも厳禁で、スカートの丈も膝より上だと直される。だから女の子は真面目な格好のおかっぱだらけだ。

校内に自販機なんて洒落たものは存在しないし、購買で自由にパンを買ってはいけないので、朝に日直がパン注文というのを一人一人から取って、昼に受け取りに行ってクラスの生徒に配給していた。軍隊じゃあるまいし・・・。学期の終わりになると生徒が校舎中のワックスかけをやる。手は臭くなるし陰鬱な気持ちでこなした。

授業では、ほぼ全部の科目で、毎日家でやって来る課題が山ほど出る。やって来れなかった奴は授業中立たされる。ここは昭和か、という感じだ。H東高校の授業は、「お願いします」に始まり、「ありがとうございます」に終わる。全然ありがたくなくて涙が出そうになる。三年次は受験に集中できるようにと、三年間で消化するはずの教科書を二年間弱でこなす為、驚異的なペースで授業が続く。

当然、それだけでは授業時間が追い付くはずもなく、夏休みや冬休みにツケが回って来る。長期休暇とは名ばかりで、土日以外は学校に出て来て一日四時間ほどの授業を受ける。宿題もどっさり出る。生徒達はこの時、入学時に教師が親に言っていた「塾には通わせる必要はありません」の言葉を思い出すのである。よって、オレの夏休みの思い出は勉強漬けの毎日しか残ってない・・・。

体育教師は例によって熱血スパルタ型で、体育の授業はまず大声を出しながらグラウンドを周回することから始まる。声が小さいとペナルティが出る。酷い日は走ってるだけで授業の終わる時もあった。オレは何を思ったか体育委員をやっていて、校外に聞こえるくらいでかい声で、腕立てや腹筋の先導をやらされていた。「お前は体操の姿勢が良い」と、体育の先生にも何故か気に入られていた。そのせいで、柔道の授業では、先生に技をかけられてデモンストレーションをこなす役になっていた。勘弁してくれ。柔道は真冬に下着着用不可でやっていたので、先生に投げられる度にチンコが縮み上がりそうになる。

一応刑務所のようなこの学校にも行事はあるので、それらも紹介しておこう。体育祭は要するに陸上大会と球技大会を合わせたもの。一年男子は組体操で信じられないほど高いピラミッドだか塔だかを作らされ、てっぺんから落下した奴も居た。体重が軽めだったオレは上から二段目をやらされていて、かなり悲惨だったけど落ちた奴よりはマシだったか。二年男子は大江戸吹雪とかいう踊りを、扇子片手に踊る。羞恥の余り逃げ出したくなる。オレは帰宅部だったのに、短距離のタイムがそこそこだったせいで、800mリレーのクラス代表にされたりもした。日頃の運動不足で泣きそうになりながら走った。球技大会はだるいので廊下でサボって寝ていた。

二年次の冬休みには、「学習合宿」という行事があった。少年自然の家とやらに行って、二週間ほど閉じ込められてひたすら勉強する。日に三回の食事以外で、口にして良いのは配給されるみかんのみ。日本にこんな行事が存在していることが信じられない。ここで思わぬ再会があった。中学時代の音楽の先生が、教師を辞めて働いていたのだ。彼の目には、さぞかしオレが将来に絶望した顔に映ったことだろう。

修学旅行は山陰地方へ行く。私立校は海外旅行、他の公立の連中も東京やら行っているのに、ものすごい落差。自由時間なんてものは当然一分たりとも無い。地方の歴史を肌で感じる為に行くから、そういう時間は必要無いそうだ。生徒の半数以上が行きたくないとつぶやいていた修学旅行も珍しい。

毎年二月は、マラソン大会で15キロくらい走った。馬鹿みたいに寒い中を、半そで短パンで走る。多少の体調不良でも強制的に参加となる。それが災いしてか、オレが三年の時、一年か二年の生徒が走ってる途中でぶっ倒れて意識を失い、救急車が出動する騒ぎになった。これは新聞や地元のテレビでもニュースになってた。学校の恥だと、生徒達は日々の鬱憤が少し晴らされた。

OBの人がやって来て話をする講演会では、アニメ業界では大層有名らしい、あかほ●さとるという人がやって来て、その道の奴らは大いに喜んでいた。しかし、この人の講演も、内容のほとんどが学生時代の悲惨な思い出話だった。学校から頼まれたのか知らないが、その頃の辛い経験があったから今の自分があるとか言って締めていたのが印象的だった。

オレ個人の思い出と言えば、いじめ疑惑事件は殊更に鮮明に憶えている。クラスの某生徒をオレと他二名がいじめているとか言って、いわれの無い批判を教師に浴びせられた。しかもオレが一番酷い主犯格みたいに言われて、ほとんど誰も入ったことが無いだろう生徒指導室に一日中監禁された。これは文字通りの"監禁"で、部屋はただひたすらに真っ白で、水道の蛇口と机と椅子以外は何も無い部屋で反省文を原稿用紙十枚くらい書かされた。無実なんだから何も言うことは無いみたいなことをひたすら書いて、机で寝ていたら、生徒指導担当の教師が入って来て、ふざけるなと怒鳴られた。母親は校長室に呼び出されるわで、結局、もう二度としないように、とか言われた。ちなみに、オレがいじめてたと勝手に決められた奴とは良い友達だったし、高校を卒業した後の今でも交流の続く数少ない友人の中の一人だ。新年には一緒に焼肉屋に行ったりもしている。この事件だけは、思い出しただけでも腹が立って来る。

結局、あの三年間は何だったんだろう。いつか卒業できることだけを楽しみに頑張った毎日だった。得たものは友人という財産以外はほぼゼロに等しく、失ったものは余りにも多い。毎日筋トレをするようになり始めたのも高校の頃からで、とにかく何か張り合いのある生活をしないと発狂しそうだった。

今ではヘルメット通学は廃止になったと聞く。徹底教育推進派だった教頭や生徒指導の奴が別の学校へ転勤になったことが、主な要因らしい。それを知った時は、あんな頭の堅い学校でも、いつかは変わるんだなと、妙な気分になったものだ。諸行無常とはこういうことか。

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